[ 戸塚 元町別道 ]
戸塚宿の東側を流れる柏尾川に架かる大橋が右側に描かれています。その手前に、鎌倉方面へ向かう道との分岐があり、橋の袂の茶屋(旅籠?)「こめや」に立ち寄ろうとしている一行が描かれています。
大橋の先には戸塚宿の家並みが連なり、その先には山が見え民家も散在しているようです。
[ 戸塚 吉田大橋交差点(2021 06 06) ]
現在も柏尾川を渡るところには、国道1号から鎌倉方面へ県道が分岐する「吉田大橋」という交差点はありますが、「こめや」の流れをむ汲む飲食店や旅館は見当たりません。
国道1号は吉田大橋を渡り、直進して東海道線と横須賀線をアンダーパスで潜り抜け、戸塚駅西口に向かいますが、旧・東海道は大橋を渡りすぐに左折します。
旧・東海道は電線が地中化された広い歩道のある2車線の道ですが、車の交通量が少ない比較的静かな通りです。
しばらく進むと、目の前を横切る東海道線と横須賀線の上に架かっているのは、歩行者と自転車だけが渡れる陸橋なので、旧・東海道に車の交通が少ないことに納得がいきます。
踏切を廃止するために、鉄道をくぐる国道1号のバイパスが造られましたが歩道は造られず、踏切のあった場所は歩行者と自転車が鉄道を越えるための陸橋が造られたようです。
バイパスに歩道を付けれは良さそうですが、そこまで歩いて迂回するのは距離があり大変なので、このような”歩車分離”がされた形になったのでしょうか。
[ 戸塚 渡邉本陣跡(2021 06 06) ]
戸塚駅付近の市街地は、柏尾川沿いの狭い低平地に広がり、両岸の丘陵地もほとんどが造成され宅地化され、戸塚宿のほぼ中央あった澤邊本陣跡地の背後にある斜面もひな壇になり、戸建住宅やマンションが建っています。
この先、旧・東海道は藤沢に向けてひと山越えて遊行寺坂を下ります。
旧・東海道のルートはほぼそのまま国道1号になりましたが、JR東海道線の戸塚駅~藤沢駅は柏尾川に沿って進むので大きなアップダウンほとんどありません。
徒歩であれば少し遠回りになるもののJR東海道線ルートが楽ですが、柏尾川は大雨が降るたびに氾濫していたため安定的な街道の維持が難しかったようです。
[ 戸塚 国道1号の松の木(2021 06 06) ]
戸塚宿と藤沢宿の間の丘陵部を通っていた旧・東海道は、ほとんどの部分が国道1号の下敷きになり今では多くの車が行き交っています。
戸塚区原宿付近にぽつんと立っている松の木があり、旧・東海道にあった松並木の生き残りのようでしたが、2022年12月のGoogle
ストリートビューでは、上半分が切り取られ不格好な姿になっていました。
徒歩が主体の街道では必要性の高かった並木ですが、交通の主体が車に代わると維持管理のお荷物になっているようです。
[ 藤沢 遊行寺 ]
描かれている川は境川で、川の右岸側に大きな鳥居がシルエットのように描かれ、境川に架かる遊行寺橋の上には行き交う多くの旅人が描かれています。
鳥居の下を杖をついて歩いているのは江の島に向かう旅人で、遊行寺橋の袂が東海道と江の島方面への道の分岐になっていました。
遊行寺は小高い丘の中腹に佇んでいますが、実際よりも街道から離れた位置に、丘も険しく描かれているようです。
[ 藤沢 遊行寺橋(2021 06 06) ]
[藤沢 遊行寺]は遊行寺参道の家並みや鳥居を見下ろす視点で描かれているので、遊行寺が良く見える構図になっています。
描かれている鳥居は江の島弁財天のもので、現在は鳥居はありません。
鳥居があったところには江の島弁財天への道しるべだった道標があり、そのあたりから遊行寺方面を見ても手前に建つ住宅やアパートが見えるばかりで残念ながら遊行寺は見えません。
近くに建つマンションの上層階からは家並みの先に遊行寺が見えるかもしれません。
[ 藤沢 遊行寺(2021 06 06) ]
旧・東海道は戸塚宿から遊行寺坂を下り、境川の手前で右折、遊行寺参道を左折して境川に架かる遊行寺橋を渡っていました。
現在は遊行寺坂から真っすぐに境川を渡る藤沢橋が架けられているので多くの車が通り、おかげで遊行寺橋を通る車は少なくなり、赤い高欄のある小振りなコンクリート橋になっています。
遊行寺坂は丘陵を切り下げて車が通行しやすい勾配になっていますが、それでも箱根駅伝で難所といわれるような坂です。江戸時代は現在よりもきつい勾配だったはずです。
江の島への道は鳥居から南下しますが、旧・東海道は西へ進み藤沢宿の街並みが始まります。
藤沢宿だったところは東海道線の藤沢駅から北に1km程離れているので、街道沿いに大きなビルは少なく間口の狭い敷地割がそのまま残り、その上に建物が建っています。
[ 藤沢 遊行寺坂(2021 06 06) ]
遊行寺橋が架かる境川は、その名の通り上流部では武蔵国と相模国の国境となっていた川で、JR東海道線の南で戸塚宿の脇を流れていた柏尾川と合流し、片瀬江の島駅付近で海に注いでいます。
江戸時代、境川はたびたび氾濫し藤沢宿にも大きな被害をもたらしていましたが、現在でも氾濫の危険性がなくなったわけではありません。
遊行寺橋付近の境川は、コンクリートで固められた川幅20mほどの小さな川ですが、流さは約52kmもあるそうです。
[ 平塚 縄手道 ]
繩手道(畔道)を走ってくる飛脚の後ろに、特徴的な丸い形の山が小高くそびえ、その奥には小さいながら富士山も見えています。
繩手道沿いのところどころに松の木が立っていますが、平塚宿から外れた田んぼの中を通る道で民家は全くありません。
丸い山の手前に見える橋は、花水川に架かっていた橋のようです。
[ 平塚 高麗山(2021 06 13) ]
丸い形をした山は高さ168mの高麗山で、現在でも一目見れば[平塚 縄手道]に描かれていた山だとわかります。
[平塚 縄手道]が描かれた場所は、平塚宿西端の京方見附付近で、現在は旧・東海道が国道1号に合流する交差点となっています。
広重は旧・東海道をつづら折りで描いてますが、実際は緩いカーブはあるもののほぼ直線なので、面白さを出すために右に左に曲がる道で描いたのでしょうか。
街道の左右に描かれていた水田は、戦後しばらくはまとまって残っていましたが、現在では宅地や駐車場になり見ることはできません。
[ 平塚 区画整理された東海道(2021 06 13) ]
平塚宿は西は花水川、東は相模川に挟まれ、JR東海道線の平塚駅がほぼその中間の旧・東海道に近い場所に造られたこともあり、旧・東海道沿道も駅周辺と一体的に発展しましたが、戦災で市街地の約60%が罹災しました。
戦後になり平塚宿は、復興土地区画整理とそれに続く都市改造土地区画整理事業で大きく姿を変えたので、昔の面影は残っていません。
区画整理で整備された歩道に「一里塚跡」「本陣跡」などの案内が立っていますが、注意して歩かないと見過ごしてしまいます。
[ 平塚の塚(2021 06 13) ]
旧・東海道の少し北側に『平塚の塚』という緑地があります。
この地で857年に旅行中に亡くなった貴人の墓として塚が築かれましたが、その上部が平らになったので「平塚(ひらつか)」と呼ばれるようになったと、地名の由来が説明されています。
[ 大磯 虎ヶ雨 ]
大磯宿の江戸見附付近から大磯宿とその背後に広がる太平洋を望んでいます。
街道沿いには松並木と藁葺きの屋根、海辺には松林が描かれ、雨の中を蓑をかぶって歩く旅人、馬を引く馬子が描かれています。
[ 大磯 江戸見付跡(2021 06 13) ]
[大磯 虎ヶ雨]で描かれた旧・東海道付近は、現在の国道1号のルートから外れたためほぼ昔の幅で道が残っています。
車道の両側に広い並木敷が残り、連続してはいませんが松並木も残っています。
なかには、道路の上に覆いかぶさるように生えている(倒れ掛かっている?)松もあります。
大きな松の木が減りつつあるので、小さな松を補植し並木を再現しようとしていますが、 並木敷の後ろは戸建て住宅で埋め尽くされています。
大磯は気候が温暖なので、歴史の教科書に出てくる伊藤博文、大隈重信、吉田茂、岩崎弥之助など明治期以降の政治家、財界人の邸宅・別荘が立ち並びました。
これらの邸宅・別荘や跡地は公園、博物館として使われたり、移築されて明治記念大磯邸園で公開されています。
邸宅・別荘は普通の人には縁遠い存在です。
[ 大磯 サーフィンに行く家族(2021 06 13 ]
サーフィンを楽しむ家族が、自転車の横にボードを付けて、海岸に向かう姿を見かけました。
まだ海水浴には早い時期でしたが、海とともに大磯で生活している一家のようでした。
大磯に限らず、西湘バイパス(国道1号のバイパス)が海岸沿いを走っているところは、バイパスが城壁のように立ちはだかっているので、海に出られるポイントを知らないといたずらに遠回りしてしまいます。
[ 大磯 松並木 (2021 06 13) ]
旧・東海道が国道1号になっても松並木が残されているところがあります。
大磯中学校前から旧・伊藤博文別邸である滄浪閣前までの約400m区間には、大木の松並木が残されています。
二列ある松並木の間では上下線の幅が確保できないので、小田原方面行の車線は松並木の間を通り、横浜方面行の車線はその北側を通っています。
大きな松は、歩道橋の上からでも見上げるほどなので高さは軽く10mを超え、直径1mほどの太さの松の木もあります。
松並木があると東海道らしい雰囲気が感じられます。
[ 小田原 酒匂川 ]
肩車、蓮台、駕籠などいろいろな方法で酒匂川を渡る旅人が小さく描かれ、河原には巨岩が頭を見せ、葦らしき植物が繁茂しています。
芦原の奥には小田原宿の家並みが続き、小田原城の後方には険しい箱根の山並みが描かれいます。
[ 小田原 酒匂川(2021 06 18) ]
現在の酒匂川には400m近い長さがの酒匂橋が架かっているので、水に濡れることなく容易に渡ることができますが、広重が描いた酒匂川もかなりの幅があり渡河は大変そうです。
今では酒匂川から小田原城までの間にたくさんの建物があるため、小高い丘の上にある小田原城も見えなくなっています。
旧・東海道は酒匂川を越えしばらく国道1号を進みますが、小田原市街の新宿交差点で左折して100mほど進み『かまぼこ通り』と呼ばれる通りへ右折します。
[ 小田原 かまぼこ通り(2021 06 18) ]
[小田原 酒匂川]に描かれている家並みは、小田原城との位置関係から『かまぼこ通り』付近ではないでしょうか。
小田原名物であるかまぼこ屋の本店が多くある通りですが、かまぼこ屋が連続して軒を揃えているわけではなく、点在する店の間は普通の民家があるので○○横丁のように賑わってはいません。
かまぼこは平安時代からあり『東海道中久栗毛』にも登場するので、当時の小田原宿でも食べることができたのかもしれません。
現在は小田原駅のまわりにかまぼこ、練り物を扱うお店がたくさんあるので、『かまぼこ通り』まで足を延ばさずに買うことができるのも、寂しさの一因のようです。
[ 小田原 有料道路(2021 06 18) ]
小田原城下を過ぎしばらくは国道1号を歩きますが、小田原厚木道路の高架下で旧・東海道は国道1号と分かれ幅4~5mの落ち着いた静かな道になります。
箱根駅伝の中継点である『鈴廣かまぼこの里』の裏側を迂回するような道ですが、この道は小田原の板橋から湯本まで全長4.1kmの日本初の有料道路の一部です。
江戸時代の東海道を平均幅5mに拡げ、人力車が通れるように2か所の急坂を付け替え、1875(M8)年に開通しました。
開通から5年間通行料を取り、人力車や馬車が箱根湯本に入るようになったそうです。